フィッシュマンズの楽曲は、音の作り込みをはじめ、音楽的な面白さが魅力ですが、それと同じくらい重要なものになっているのが佐藤伸治がつむぎ出す歌詞です。

その魅力について書いてみます。

佐藤伸治がつくる歌詞の特異性

バブル期からゆったりしてた

1991年シングル「ひこうき」でデビューし、1998年12月に出た「ゆらめき IN THE AIR」がオリジナルとして最後に発表された楽曲になったわけですが、基本的にデビュー当時から最晩年まで、歌詞の世界観は変わっていないように思います。

例えば、デビューアルバム『Chappie, Don’t Cry』に収録されている「Future」という曲の1番を引用します。

Future 見えない午後をあなたに

Future 消えそうなライトがキラリ

 

忘れた頃にやってくる あなたは未来の王様みたいに

ひとり離れて浮かんでるよ

ひと言何か僕に言いたそうに

 

息も切れそうに走るなら

眠ってた方がましよ スイッチを消してよねえ

    ▲こちらの「Future」はリミックスバージョンで、原曲はロックステディ調になっています。

 

ファーストアルバムに入っている楽曲は、フィッシュマンズが学生時からやっている曲もあり、当然ながら91年以前につくられた曲ということになるのですが、この曲というか歌詞を見たときにすごいなと思いました。

何がって、時代背景を考えると、この曲がつくられたのが正確にいつなのか知りませんが80年代後半か90年代初頭だとして、いずれにしてもバブル景気まっさかりで日本が浮かれているときです。

 

テレビ・広告業界を中心に、当時出回っていた制作物はそういった時代を反映したものがほとんどだったわけですが(音楽業界ではバンドブーム)、そんな時代に「息も切れそうに走るなら/眠ってた方がましよ スイッチを消してよねえ」と佐藤伸治は歌っているわけです。

 

近年、ロハスとかスロウライフとかが着目されたりしていますが、その何十年も前から佐藤伸治は「ゆっくり」「何もしない」「退屈を楽しむ」といったことを歌にし続けており、その先見性に驚いたのではなく、時代背景とかに関係なく、自分の思い描く世界観を一貫して表現し続けているその姿勢に驚いたのでした。

 

今日が終わっても明日はきて、長くはなく日々は続く

僕が初めてフィッシュマンズを聴いたのは『空中キャンプ』で、そこに収録されている代表曲のひとつ「baby blue」の一節を引用します。

 

真白い君の肩を抱きながら

何を言えばいいのかわからない僕だったよ

 

知ることもなく 消えては浮かぶ君との影 すぎていく影

意味なんかない 意味なんかない

今にも僕は泣きそうだよ

 

このまま連れてってよ 僕だけを連れてってよ

どこまでも連れてってよ

 

(中略)

今日が終わっても 明日がきて 長くはなく 日々は続くさ

意味なんかない 意味なんかない

今にも僕は泣きそうだよ

(後略)

 

ポリドール移籍以降に発表された楽曲を集めたベスト盤『Aloha Polydor』の解説で、「“今日が終わっても~”という一節は「終わりなき日常を生きろ」という90年代屈指のスローガンともほぼ同じだった」と三田格が書いてるんですけど、僕はこの引用には異議があって・・・。

 

「終わりなき日常を生きろ」といったのは社会学者の宮台真司で、言葉面だけ捉えると親和性があるように見えますが、個人的には佐藤伸治が歌詞でうたったこととは似て非なるものであると思っています。

 

というか、この辺のことを語るには多少時代背景的なことを述べないといけないのかなと思いつつ、以前NHKでやってた宮沢章夫「ニッポン戦後サブカルチャー史」の90年代特集に即していうと(最近また本が出ましたね)、そこでは岡崎京子『リバーズ・エッジ』の次の言葉が引用されていました。

 

私は世界が終わってしまうといった世紀末の終末感より、むしろ“世界が終わらないこと”のほうが怖い。終わらない、この日常をジタバタ生きていくことのほうが恐ろしい。

 

ちなみに、95年には阪神大震災とオウム事件があって、それらを踏まえてこの「終わりなき日常を生きろ」という本は書かれているわけですが(副題は「オウム完全克服マニュアル」)、読んだのかなり前で十全に記憶していませんが、これまで自明とされていた秩序的なものはなく、絶対的な善も悪もない。

そういう絶対的なものなく、劇的なことも起こらない(大きい一発もない)混沌とした世界で、退屈な終わりなき日常をしなやかに生きていきましょうみたいな感じだったでしょうか(この「しなやか」って悪くいうと「場当たり的」というか、その場、その場に順応するみたいな。その代表例的にバイタリティある存在として当時宮台はブルセラ女子高生などを取り上げていたわけですが、後に宮台は考えが間違っていたと転向しています)

 

一方で、先に引用した岡崎京子は、そんな当たり前のようにどこまでも続いていく「日常」を「ジタバタ生きていく」のが「恐ろしい」といっています。

 

佐藤伸治は、そんな「退屈な日常」を楽しむと歌います。

その意味では「終わりなき日常を生きろ」と近しいものがあるかもなんですけど、大きく違うと思うのが、今はこんな世界になっちゃんだから、びっくりするような大きな出来事も、絶対的な神様もいないし、今あるたんたんとした毎日を面白く生きようといった世界観が「終わりなき日常を生きろ」的なものだとすると、佐藤伸治はあくまで主体が自分にあるというか、「終わりなき日常を生きろ」って今まで何度か書いてきましたが絶対的ものがない=相対的なものの捉え方だと思うんですけど、佐藤伸治って基本的に自分のことしか歌ってないというか、周りがどうとかよりも、徹底して主体的なんですよね。

 

だから、時代がバブルだろうが、阪神大震災やオウム事件が起こって、世紀末的な漠とした不安を人々が感じるようになったりしようが、基本的に、本質的な部分で歌っていることの中身は変わっていなくて、逆にいうと「90年代後半の特に東京の空気感は、フィッシュマンズっぽかった」みたいなことを書いていた人がいたけど、佐藤伸治のもともともっていたものと時代がリンクしたという見方もできると思います。

その佐藤伸治の変わらなさ、変わらないゆえの射程の長さみたいなことはどこから生まれてきたのかの答えはわからなく、(バブル期から一貫して同じことを歌ってるし、「baby blue」とかは、2000年以降に出たセカイ系の一端を示すような世界観でもあるし)あえていうと彼が心酔していた「猪木イズム」、意訳して「本気で、命削って自身の専門ジャンルに打ち込む」ってことがその要因になっているのかなと思います。

 

意味なんかないことの意味性

話を戻しますが、僕がはじめてフィッシュマンズの『空中キャンプ』を聴いたときに、音もですが、やっぱ詩の世界にすごくひきつけられたところがあって、当時は10代の最後くらいの学生のときだったんですけど、「非生産的なムダなことって本当にムダなのか」みたいなことを考えていて、違う言い方をすると「意味なんかないことの意味性」ということになるんですけど、例えばベッドの上で読書をするというのはそれなりに有益な時間だと思うんですけど、ページをとじて仰向きに寝て、窓から見える昼過ぎの青い空をぼうっと眺めて、そのまま十分ほど寝ちゃったとかいう時間は、生産的がどうかでいうと全然生産的じゃないし、それだったら本読んだ方がまだしも有益なんだけど、まったくその人にとって無意味なことなのかというと、具体的にこれがと示せないけど、無駄なことだけではないんじゃないかと思っていました。

他に例をあげようと思ったけど、だいぶ長くなってるので割愛して先に進みます。

 

つまり、意味なんかない行動や出来事にも何かしらの有用性はあるのではないか、つまり意味はあるのではないかということを考えていていました。

今は仕事で大手代理店の人とかとかかわることもあるんですけど、大きな企業になればなるほど新しいことをするときに、「事業の収益性」であったり、実効性みたいなものをとことん詰めて、ちょっとで不透明なものがあるとダメってなるわけですが、関わる人や予算も多いしそうならざるを得ないのもわかるし、僕も仕事上では非論的な人とかむかついたりもするんですけど、すべてがそんな考えだったら面白くないというか、本当に新しいことが生まれてこないようにも思います。

 

たとえば、野茂がメジャーに挑戦するっていったとき、当時はFAやポスティングシステムもなかったし、かなり無茶してドジャースに入ったわけですが、通用するわけがないって観点からマスコミは批判しましたし、上の「収益性」的な観点から見ても、日本にいときゃ1億円以上の年俸があるのにその何十分の一となるメジャー最低年俸から始めるなんて(成功するかどうかもわからんのに)、まさに狂気の沙汰だと思うんですけど、「経済的なこと考えたらリスク大きすぎるし止めとこう」となっていたら、野茂というパイオニアは生まれていなかったでしょう。

もちろん、そういったチャレンジをした人のすべてが成功するわけではないけど、何もかもが見通せて、確実とわかった上でないと行動できないなんてなると、上でも書きましたがやっぱおもんないし、本当の意味で新しいことは始まらないように思います(しかも、大企業がそんだけマーケティングやシュミレーションを重ねて起こした大事業でも失敗することもありますしね)。

 

そんな感じで、意味なんかないことの意味性について考えていたいところへ「今日が終わっても 明日がきて 長くはなく 日々は続くさ/意味なんかない 意味なんかない/今にも僕は泣きそうだよ」って歌詞はすごくしっくりきたのでした。

 

それだけじゃなく、『空中キャンプ』だけを見ても他にもいろいろグッとくる歌詞はあって、例えば「すばらしくnice choice」の「目的は何もしないでいること/そっと背泳ぎを決めて 浮かんでいたいの/行動はいつもそのためにおこす」ってありますが、こことかも最初聴いたときに、わーと思いました。

 

【すばらしくnice choice】

http://www.nicovideo.jp/watch/sm5702163

 

「何もしないでいること」が目的だと宣言し、「行動はいつもそのためにおこす」って、なんかパラドックス的だけど、意味なんかないことに意味があるように、「何もしない」ってことをつらぬくと何かをしなければいけないって、感覚的にわかるっていうとか、なんかしっくりくるものがあったのでした。

 

あとは、フィッシュマンズって浮遊感っぽいイメージの延長線上で、ふわふわしてるみたいなことを言う人がいますが、別にそれはひとつの意見として全然いいと思うんですけど、一見ふわふわしているその裏側でっていうか、佐藤伸治を見ていると、ライブとかでもなかなか他にこんな人いないってくらいの気合が入ってて、真剣に音楽に向き合ってるのが伝わってくるし、つまり何がいいたいのかというと、「ふわふわ」とかはあくまで表面的なもんで、その中身にはちょっとやばいくらいの真剣さというか、本気度があると感じられ、「目的は何もしないでいること/そっと背泳ぎを決めて 浮かんでいたいの/行動はいつもそのためにおこす」の「行動はいつもそのためにおこす」は、なんかその気合の表れのような気もします。

「風を止めたいなあ どっか遠くへ行きたいなあ」の革新性

佐藤伸治の詩の世界についてはほかにもまだまだ書きたいことがたくさんあるのですが、今回の命題はweather reportの歌詞についてだったので、そろそろ本題に入ります。

 

weather report

作詞/作曲 佐藤伸治

東京地方に大雨が降り続けて、

部屋の中に居続けることもあるさ

まるで魚になった気分だよ

まるで水槽の中の魚

まるで泳がない魚

 

台風の夜は風が吹き続けて

紙ふぶきをまきちらすこともあるさ

風にのっかってね 風にのっかてね

紙ひこうきをとばし続けることもあるさ

何だか夢のあることだと信じてます

 

風が吹き続けて いつもここにいるよ

何かいいことがなかったけなあ 何か

 

風を止めたいなあ どっか遠くへ行きたいなあ

風を呼びたいなあ このままこうしてもいたいなあ

 

東京地方に青空が広がって

春なのに25度を超えていこうとするような時もあるさ

あるさ

なんだかそれはデート日和なんだ

 

風が吹き続けて いつもここにいるよ

何かいいことがあったはずさ

風が吹き続けて いつもここにいるよ

誰かがいつも そばにいたはずさあ

 

 

「なんだかそれはデート日和なんだ」ってとこがちょっとこっ恥ずかしい感じはしますが、それ以外は曲も詩も完璧というか、特にライブバージョンはとてつもなく気持ちのいい一曲ですが、僕が初めてこの曲を聴いたときに感心したのが、「風を止めたいなあ どっか遠くへ行きたいなあ/風を呼びたいなあ このままこうしてもいたいなあ」のラインです。

 

これって、普通は逆ですよね。

つまり何が言いたいのかというと、歌詞に「風」が出てきた場合、ボブ・ディランの「Blowin’The Wind 」が代表例ですけど、大抵は「吹かれる」ものだと思うんです。

はっぴぃえんどの有名な曲に「風をあつめて」ってありますけど、これは「吹く/吹かれる」のベクトルから外れたまた別枠という感じで(その意味では、さすがに松本隆って感じですけど)、たいてい「風」が出てきた場合、追い風的に「吹かれる」か、散乱的なイメージで風が「吹きすさぶ」か、もしくは向かい風的に吹いてくるかみたいなイメージになると思います(風ソングを網羅的に聴いたわけではないので例外もあるかもですが、だいたい僕の知ってるやつは「風」には「吹かれて」います)

 

で、weather reportの歌詞をあらためて見てみますが、「風を止めたいなあ どっか遠くへ行きたいなあ/風を呼びたいなあ このままこうしてもいたいなあ」となっています。

通常の流れであれば、「どっか遠くへ行きたい」場合、追い風的に「風に吹かれる」イメージを踏襲すると、それに呼応するのは「風を呼びたいなあ」であるはずなんですけど、「どっか遠くへ行きたい」ときに「風を止めたいなあ」と言ってて、「このままこうしてもいたい」(=部屋に居続ける)ときに「風を呼びたいなあ」と言っています。

 

つまり、出かける→前に進む→風に吹かれるみたいなイメージではなく、もっと実際的というか、出かけるときは風は止んでほしい、んで、逆に「風を呼ぶ」ときは部屋の中で「このままこうしてもいたい」といってるわけで、その点に感心しました。

 

ま、歌とか関係なく、嵐の日に家の中にいる自分、もしくは恋人同士を想定すると、嵐だから出かけるときは風止んでねって感覚はわかるんですけど、歌詞の中でそのことがこんなに普通に歌われてるのが、なんかすごいなあって。

しかも、アコギの弾き語りのフォークソングとかじゃなく、オリジナルだと打ち込み全開のこんな心地のいい楽曲で、みたいな。

 

 

この話を昔フィッシュマンズ好きの友だちにいったときは、あまりピンときてないみたいだっけど、あんましそこに感心したした人はいないのかなあ。